脳科学とハコミセラピー

  近年、「脳科学」という言葉をよく耳にするようになりました。人間の脳に関する研究が急速に進み、脳の働きと心の動きとの関連性についても、さまざまな事が解明されてきました。ハコミ創始者であるロン・クルツ博士も、晩年は特に脳科学と心理学との関連について、さまざまな研究と探求を行っておられました。そうした中で、ハコミセラピーは、脳科学の視点から見ても、とても理にかなった心理療法であることが明らかになってきています。

  脳科学と仏教の見地から、心の平安を生み出すような脳を育むための具体的方法を提示し、すでに20数カ国語に翻訳されている世界的ベストセラー、『ブッダの脳』の共著者であるリック・ハンソン博士が初来日された際には、日本でもお馴染みのハコミトレーナー、ドナ・マーチンさんからの紹介で、我々もプライベートでゆっくりと会食する機会を得て、脳科学の新しい情報やそうした観点から見たハコミの有益性などについて、とても貴重なお話をうかがうことができました。

  博士は、ハコミについて次のようにおっしゃっています。「ハコミで行っているアプローチは統合的で、左脳と右脳、言語的プロセスと非言語的な視覚的プロセスとを(水平方向に)つなぎ、大脳皮質(特に前頭葉前部皮質)を大脳辺縁系などの皮質下や脳幹の領域と、また物事を実行していく機能を感情や情念の働きと(垂直方向に)つなぐことになる」。

  そうした点について、少しまとめてみることにします。

○ 脳の「ネガティブ指向」が苦しみを引き寄せる

  脳と心の関係を考える上で、まず理解しておくべき最も重要な点のひとつは、基本的に脳は「ネガティブ指向」であるという事実です。太古の人類が子孫をきちんと残し、生き延びていくために重要だったのは、「食料」を得ること、そしてそれ以上に「外敵」を避けることでした。そのため、まずは不安感と警戒心をもって「脅威への備えや構えを優先する」という生存のための仕組みが、人間の脳には標準装備されています。

  何かに遭遇した時に、大脳辺縁系内では、短期間だけ情報を記憶して保存すべきものかどうか取捨選択を行っている「海馬」が、即時にそれを過去の危険や脅威のリストと照合します。それが脅威になるかもしれないと判断されると、好き嫌いを判断する感情中枢である「扁桃体」が活性化され、警報ベルのような役割をします。 そして、自律神経の中枢である「視床下部」が「脳下垂体」を促して、各種のストレス・ホルモンが血液中に送り出されます。また、「交感神経系」も活発となり、臓器や筋肉を「戦うか逃げるか」の準備態勢へと導いていくのです。

  「扁桃体」が積極的に悪いニュースに反応し、「海馬」はネガティブな体験の記憶をしっかりと保管し、参照していく…。そのようにしてネガティブな経験を優先して意識し、記憶し、参照し、将来に備えるという脳の傾向は、常に「交感神経」が優位なストレス状態を生み出します。そして、外の世界に対して漠線とした不安や警戒を感じ、恐れ、怒り、悲しみ、罪悪感などの不快な感情が活性化され、強化されてしまいがちな心の傾向へと繋がっていきます。

  実際、たとえば誰かに言われたイヤなことは何年経っても繰り返し思い出すのに、誉められて嬉しかったことは2〜3日もすれば薄れてしまっている、といった経験は誰にでもあることでしょう。私たちは、1)ネガティブな情報への感度が高く、「良いニュース」より「悪いニュース」に意識が向きがちで、2)ネガティブな体験を優先的に覚えておき、3)同じようなイヤな思いをしなくて済むように警戒しておこうとする、という傾向を持ってしまっているのです。

  ですから、私たちは、脳が元々もっている傾向によって、「苦しみの方向へと誘導されがちな存在」だとも言えるわけです。これは、人類の進化の過程では必要なことではあったものの、太古の時代のようには日常的な生命の危機にさらされていない現代人にとっては、あまり適切とは思えない困った現実ということになります。


○ 新たな「快」体験の吸収が脳を変える

  その一方で、脳の仕組みの解明は、脳には可逆性がある、つまり「脳は変わる」という希望を私たちにもたらしました。そして、脳の「ネガティブ指向」を変える方法も分かってきたのです。その一番のカギは、「心地良い感覚を取り入れる体験」を心がけることです。

  具体的には、以下がその基本ステップになります。

  • リラックスし、物事や出来事のポジティブな側面を「意図的に」意識して気づく
  •  そのポジティブさを意識している時に起きてくる、何らかの「心地よさ」の感覚を味わう
  •     (特に、感情や身体感覚の「快」に集中し、全身で感じようとすることが重要)
  •  じっくり時間をかけて、快の感情や身体感覚、思考などが心身にしみ込み、吸収されていくのに任せる
  •   「闘争/逃走」システムである「交感神経」の活性化が繰り返されていると、「扁桃体」がより敏感になり、「海馬」が疲弊して新たな記憶を生み出す能力を低下させてしまいます。まずはリラックスし、「休息と消化」システムである「副交感神経」を優位な状態にして、「心地よさ/快」の感覚をじっくりと感じ、味わうことによって、新たなポジティブな記憶が生み出されるようになります。

      また、快の感覚をできるだけ強烈なものにし、その感覚に長く留まれば留まるほど、「海馬」をはじめとして脳内のニューロンの発火が増え、新たな神経回路の連結 (シナプス結合)も多くなることが分かっています。さらに、「快感や幸福感」のホルモンであるドーパミンや「親密さや愛情」のホルモンであるオキシトシンの分泌も促されていきます。

      このような「新しい体験」を繰り返しすることが、ポジティブさに対する脳の感受性を高めて取り入れやすくし、また有益な「記憶」を増やして参照しやすい方向へと、脳の傾向を変えていくのです。すなわち、(脳の元々の傾向に逆らった)意図的な心がけ、自分への思いやりを育むような心がけによって、私たちは自分自身の脳の傾向を変えていくことができ、またその結果として心の傾向も変わっていくのです。


    ○ ハコミは脳や心をポジティブな方向へと誘っていく

      では、こうした心がけを実際に行い、脳や心の傾向を変えていくためのカギとハコミとの関連について整理してみましょう。

      第一に、快の感覚を味わって吸収していくには、まず自分の中で起きている何らかの「快」に気づくことから始まるわけですが、そうした感覚に気づくのは思考が中心となっている通常の意識状態では難しく、ハコミの中心概念のひとつでもあるマインドフルネスの実践が欠かせません。

      またそもそも、マインドフルネスで自分の内面に意識を向けると、「副交感神経」が活性化され、自律神経系のバランスが整いやすくなります。また、活性化された「扁桃体」による外界への警戒心を弱め、リラックス感を深めることにも繋がりますし、「海馬」や「前頭前野皮質」の灰白質(神経細胞が密集する部分)が増加し、免疫力、高揚感や共感などが強化されることも分かっています。

      日々の体験のポジティブな側面に気づき、心地良い感覚を積極的に取り入れ、脳や心の傾向を変化させていくための大事な入口こそが、マインドフルネスなのです。

      第二に、脳の元々の傾向として、どうしても良い体験の記憶よりイヤな思い出ばかりが甦ってくることが多いわけですが、そうした時にもやはり快の感覚によってネガティブな記憶を変化させていくことができます。それには、次のように「記憶の仕組み」を上手く活用していくことが必要です。

      どんな記憶でも、それが呼び起こされている時には、思い出しているその時の気分や感情が、「扁桃体」と「海馬」の働きによって改めて元々の神経回路のパターンに関連づけられます。そして、その記憶は、新たに関連づけられた感情と一緒に再び貯蔵されるのです。 そのようにして、記憶は再構築され、次に思い出す時には、その新しい感情も一緒に引き出されることになります。ですから、何か出来事を思い出した時、改めて「快」の感情や見方を意図的にすくい上げるたびに、脳には新たなシナプス結合による新しい神経回路が作られ、その繰り返しが脳の傾向自体を変えていくのです。

      また、記憶は思い出された直後に一番変化しやすいことも分かってきています。ですから、イヤな記憶が甦ってきた時には、思い出した1時間以内に2〜3度はその出来事のポジティブな側面を意識し、快の感覚に焦点をあてて味わうことが重要だと言われています。 実際、子供時代のネガティブな体験や記憶が、今の苦しみの根本原因であることも多いわけですが、新たな快の体験を補い、味わうことで、脳内においてその記憶も再構築されていくことになります。過去に起きた出来事自体は変わらなくとも、その体験の受けとめ方や記憶が変化することによって、心身の癒しが起こり、苦しみから解放されていくのです。

      これらの点は、まさにハコミで大事にしている点と共通したものです。

      ハコミの神髄は、クライアントがマインドフルネスの意識で丁寧に自分自身の体験に気づいていくこと、そして(思考、感情、身体感覚や動作、視覚イメージ、記憶など、さまざまな形で起きてくる)その体験のプロセスにセラピストが丁寧に寄り添っていくことにあります。 そのようなセラピーの流れの中で、しばしば自発的に甦ってきた過去の記憶も扱うことになりますが、そうした「チャイルドワーク」の中では、その人が本来その時に求めていたポジティブな体験に気づき、そうした体験をその場で新たに提供し、そこで起きてくる快の感覚を十分に時間をかけて心ゆくまで味わってもらってから終わることを重視しています。 これは、「満たされていない体験」をナリッシュメント(糧、滋養)で満たすというハコミの考え方ですが、脳科学によって指し示された、「脳や心の傾向をポジティブな方向へと変えていくためのカギ」を統合的に実践している、ひとつの具体的な方法とも言えるでしょう。


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